昨日、なぜか丸一日Facebookに書き込みができなくなりました。
閲覧するだけなら、全く通常通り使えるのですが、いいね!やコメントをしようとするとエラーメッセージが・・・
目の前で友だちが楽しそうに写真やメッセージのやり取りをしているのに、自分は全く参加できない。
自分からは見えるのに、相手からは認識されず、何もこちらから働きかけることができないのは、透明人間になったような気がして結構辛かったです。
2年前までFacebookは使っていなかったのに、あっという間に生活の一部になっていることをまざまざと実感しました。
と、同時に。
ちょっとホッとした感覚も正直ありました。
私はネット大好き人間なのですが、それでもなお、いつも繋がっている感覚が少し遮断された時になんとなくスッキリしたというか。ま、なくても別にいいか!みたいな。
で、こういう時にいつも思い起こすのは、「あー、自分はデジタル・ネイティブじゃないんだなぁ・・・」ということです。
デジタル・ネイティブとは。
ご存知の方も多いと思いますが、Wikipediaによると、「デジタルネイティブ (digital native) とは、生まれた時からインターネットやパソコンのある生活環境の中で育ってきた世代である。」とあります。特に最近は、ブログ、SNS、動画共有サイトのようなソーシャル・メディアやクラウドコンピューティングを使いこなし青年期を過ごした世代、「第2世代」が出てきたと言わたりもしているそうです。
逆に、私のように大人になってからネットやSNSを体験、利用している人間は、「デジタル・イミグラント(移民)」と呼んだりします。
ちなみにデジタル・ネイティブの一つの象徴的な実例がこれ。
ただいま車で高校に通学中の娘(17歳)。デジタルツールは彼女の事故を救えたか? | AdverTimes(アドタイ)
アメリカ在住の娘さんが、自動車運転中に接触事故に巻き込まれたにも関わらず、その場でiPhoneとFacebookを駆使し様々な人の協力を得ながら、わずか10分で現場検証を完了するという話です。
これはある意味超上級者の例ですが、筆者の方が書かれたこの指摘が特徴を分かりやすく表現されていると思います。少し長いですが引用させていただきます。
”私は彼女の緊急時におけるデジタルデバイスの使い方もさることながら、そのスピード感に圧倒された。これは前々から感じていることだが、デバイスが身体の機能として埋め込まれているのだ。まるで脳が指令を出せば、指先が動くというように。脳が中枢に信号を送れば、それはそのままダイレクトにデバイスにつながりアプリケーションが作動するのだ。頭が真っ白になってもおかしくない初めての交通事故の時に、それほど素早いデジタル処理ができる。ここにデジタルネイティブの真骨頂をみた思いがした。そしてこれはなにもうちの娘に限ったことではないはずだ。
私たちが、デジタル移民と呼ばれる意味が理解できた気がした。つまりこれを英語学習におきかえれば、彼女たちは自分の考えを表現する言語として、英語が自然に出てくる。一方、移民である私たちは考えを一旦日本語から英語に翻訳するというプロセスが多かれ少なかれ必要になってくる。当然、スピードは遅くなり、表現方法はスムーズでなくなる。デジタルネイティブがビジネスの部隊で権限を持ったなら、世の中は相当変わっていくだろう。まるでフェイスブックの世界のように。”
もちろん彼女は極端な例です。実際に同年代の人たちでも、個人差はかなりあると思います。相対的に私の感覚のほうが近い人もたくさんいるでしょう。とはいえ、世代間で比べてみたら、デジタルな環境が物心ついた時から当たり前のようにある今の10代の感覚と、私やその上の年代とは、大きく異なるのも実情だと思います。
デジタル化が進む中で、大きく変化していくものは?
デジタル化が浸透していくと変化していくことはたくさんありますが、その中で一番大きなことの一つは、上記の例にあるように、コミュニケーションです。
スマホ/SNSなどの今の時代のコミュニケーションツールに対する適応度で考えると、シンプルにこんな感じかも知れません。
1. デジタル・ネイティブ
→ ツールがない生活が想像できない。
2. デジタル・イミグラント(移民)
→ ツールが存在しない生活を(若い頃)経験してるし、想像もできる。
3. アナログ・ネイティブ
→ ツールがある生活が逆に想像できない。
ざっくり言い換えれば(個人差あるにせよ)、
1. 子供・若者
2. 大人
3. 老人
と言えると思います。
1.と3.はそれぞれネイティブ同士、互いの世界が想像できません。
(ビデオチャットで孫と会話みたいなのは当然あると思いますが、SNSをがんがん駆使してコミュニケーションを取り合うみたいなのはほとんどないでしょう)
別の大陸に暮らしているようなもので、無理せずその世界観の中で生活をしていれば、そんなにストレスはないでしょう。
そう考えると、デジタル化によるコミュニケーションがさらに進化していくことで、今の時代、それらの恩恵を被りつつも、過渡期としてストレスを感じやすいのは、アナログ・デジタル両方経験している2. デジタル・イミグラント(移民)の人たちかも知れません。
これからどうする?
手紙 → 固定電話 → ガラケー携帯電話(&メール) → スマートフォン(&SNS)
と、コミュニケーションのツール自体は技術の進歩と共に、進化してきました。
人と人が繋がりたい、コミュニケーションしたい、というのは人間の根源的な欲求であり、この流れは進みこそすれ戻ることはありません。
これからさらにデジタル化が進み、時間の経過と共にネイティブの人たちが社会の主役になっていくのは間違いないでしょう。であるならば、英語圏で英語がネイティブでないと、言語が完璧に使えないことでのストレスがあるように、たぶん2. デジタル・イミグラント(移民)に属する一般的な大人の人達は、これからも大なり小なり違和感を抱えながら、生活していくのだろうなと思います。
だからこそ、私のような大人は、
– そういうものだと割り切って、ツールに踊らされず自分が使える範囲で楽しむ。
そして
– ネイティブの邪魔をせずに、彼ら彼女らが次の時代の主役として活躍できるよう、見守る。
というところが求められるのかも知れません。
いつの時代も最先端の環境を当たり前のものとして使いこなすネイティブが育ち社会の中心になることで、その次の社会や価値観は創られていきます。
デジタル・イミグラントとしてカッコイイ大人になりたいですねー。
↓参考記事(以前こんなことも書きました)