よく言われる話ですが、ふと思い出したので備忘録も兼ねて書き残しておきます。
貨幣制度の発達によって多種多様な人たちが自らの得意なことに集中し、それぞれが生み出す価値を効率的に交換できるようになったことで、社会全体は飛躍的に豊かになりました。
ただ一方であまりに社会の中で分業が発達してしまったので、お金がある限りにおいては、ひたすら「消費」だけをすることもできるようになってしまいました。
例えばですけど、仕事が全くつまらなくても、それでお金を稼いで仕事以外の時間はほとんどストレス発散のごとく消費に費やす、みたいなことは誰でもある時期経験していたりするのではないでしょうか。
しかもお金を使ってもらおうと「消費」させるための商品・サービスやそれを売り込むためのマーケティングは発達する一方です。
要は、昔は消費しようと思えば、自分で作らないとなかなかできなかったものが、今ではお金さえあれば結構手軽に手に入る。
料理が全くできなくてもお金さえあれば、家庭では絶対に作れないし、食べられないような超一流シェフによるすごい料理だって、(特に日本の都市にいれば)簡単に味わうことができる。(最近はネットの発達で時間消費であれば、お金さえもほとんど掛からなくなってきています)
別に料理だけではなく色んな分野で同じことを言えるでしょう。
また私は地方出身者なので分かりますが、田舎の小さなお祭りなどは地元の人にとっては参加するものである一方で、そもそも自ら準備をするものでもあります。
花火を観てカップルで「わー!きれー!かんどー!」とかキャッキャウフフしてるだけって、おまえらどんだけお手軽なお祭りやねん!!
すいません。つい、心の叫びが・・・ってか、自分も若いころ色んな花火大会行ったなぁ(遠い目
ま、それはいいとして話を戻しまして。何が言いたいかというと。
そういう消費を繰り返していくことで、
美味しいものをいっぱい食べて感動しました!
きれいなものをいっぱい観て感動しました!
(人が創ったもので)とても感動しました!
毎日そういう感動を追い求めて、そして極端な話、毎日感動しまくった日々だったとして、果たしてそういう人生が充実していたと言えるのか?
語弊があるかも知れませんが、たとえ感動的な映画を観て涙が枯れるほど泣いたとしても、結局それは美味しいご飯を食べて感動しているのと、本質的には同じこと。
だって結局は誰かが作ってくれた刺激に反応しているだけだから。
それがダメだということでは全くなくて、そればかりを追い求めるような生き方は片手落ちだと思うのです。
East Village Criterium / Phil Roeder
昔から読んで頂いている方には、またこのツイートかよと思われるでしょうが(笑)、でもやはりこの言葉を紹介したい。
自分は誰か?それは、自分が生まれた世界と、生まれなかった世界の差によって定義される。柱につけた身長を刻む傷、他人の心に残る言葉やツイート、なんでもいい。死後に残った差の集合体が自分だ。よい差を残せると良いな。Make a difference. Be the change.
— 古賀 洋吉さん (@yokichi) 2011年9月4日
消費がある意味、誰かが作ったものを自らにインプットする行為だとしたら、それとは対極に、自ら外の世界に働きかける(アウトプットする)ことで、何らか差を残す。その過程において体験する感動もあろうかと思います。
美味しい料理を食べるのと、美味しい料理を作って食べてもらうことの違い。
花火を観に行くだけ(笑)と、自ら祭りの準備に関わったときの、お祭り当日の違い。
インプット(消費)でも感動できるし、アウトプットでも感動できる。
心が震えるという意味では同じことですが、どれだけ感動したとしても、それが結局は誰かが作ったものを消費した結果なのか、自分が何か外に働きかけた結果によるものなのかで、全く質は異なると思うのです。
だからこそ、常に心に問うておきたいものです。
その感動はどっちのもの?
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