今回のアルジェリアテロで犠牲になられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
基本的に時事系のことは書かないのですが、犠牲者の実名報道の件が気になって、短いですが書いておきます。
アルジェリアテロ報道に見るメディア業界の非常識(ふじい りょう(Parsley)) – BLOGOS(ブロゴス)
基本、ここに書かれていることと同意見です。
”記者サイドからは、実名報道の理由として、「何よりの弔いになる」「事件を公的なものとして歴史に刻むため」といったことが挙げられていた。確かに後日に事件の全容を明らかにする中で、親族の同意があった上で公表することもできるかもしれない。しかしながら、それがストレートニュースでやる必要があるのか。ご本人や遺族のプライバシーを脅かしてまでマスに知らせる必要がある情報なのか。この二点には疑問を挟まざるを得ない。”
弔いも歴史に刻むことについても、何らか意味があるとして、
1. なぜ本人・遺族の意思を無視して、
2. 落ち着いてからではなく、「今」報道しなければならないのか?
そのことについて、きちんとした説明を知りたい。
– 今までそうしてきたからという慣習。
– スクープ至上主義で他社との競争の中でやらずにはいられないという業界構造。
– 視聴率、部数のためという経営上の問題。
実質的な背景として色々な理由はあると思いますしそれはそれで納得なのですが、とはいえ表向き彼ら・彼女らを実名報道に駆り立てる、自らを正当化する論拠があるはず。
おそらく正義感や使命感があるのだと思うのです。そういう意味でこの件、ものすごく引っかかっているのは、この一点です。
なぜ(本人の代理たる)遺族の意思を無視できるのか。
犯罪者の情報を(本人の意思とは関係なく)公開するというのは、社会に害をなす行為に対して再発防止や模倣犯を牽制するなどの抑止力を働かせるためとして考えた場合、まだ理解できます。(個人的には大事件に限るべきとは思いますが)
しかし今回、所属する共同体(=社会)に対して不利益を与えたわけでもない人達に対して、本人たちの意思を無視して望まない影響(プライバシーを公開されてしまう)を与えられると考える論拠が何なのか、全く分かりません。
今回の件で、自分の周りは実名報道に批判的な人がほとんどですが、仮に100歩譲って知りたがっている人がたくさんいると仮定して、そういう人達のためにも報道すべきだ!と考えているとしたら、全体の利益のためなら、個人の意思を無視して不利益を与えても良いって、それ全体主義に繋がる話じゃないかと。
正当化する言説がどこかにあるのかな。んー、だれかちゃんとした解説して欲しい。本当に理解できない・・・
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