できるかぎりインプットはアウトプットを前提とする。

えーっと、アウトプットの重要性なんて、このブログ読んでいる人には釈迦に説法というより、釈迦に向かって悟り方教えてやる、ぐらいの当たり前の話だと思いますが。

でも、今回TechWaveに寄稿するにあたって、記事を書いている間中ずーーーっと痛感したのは、講演内容の自分の理解や記憶は本当に浅かったんだなぁ、ということです。

もちろん講演のメッセージそのものはシンプルかつ誰にでも伝わる普遍的なものですし、一を聞いたら十を知るというぐらい、講演内容を余すところなく理解できた人もたくさんいると思います。だから自分の理解力と記憶力の無さが一番の原因かと(泣)

そんなわけで、記事を書く過程で、講演内容を繰り返し聴き直し、色んなメディアでの言動や自分のメモを読み返す中で、「あれ?ここはどういう意図なんだろう?」とか「この話とこの話はどう関係するんだろう?」など、メッセージの背景にある思想、各メッセージの関係性などの理解が、如何に曖昧だったかを何度も感じました。

講演の全体像を捉えようとすると、途端に分からなくなることが続出という。。。(プロの記者やライターの方って本当に凄いですね・・・)

「ほとんど教授の言葉の引用やんけ!何を悩むねん!?」というツッコミもあろうかと思いますが、それでも今回取り上げるものと取り上げないものの選別、メッセージの順番やその導入文を考えていく過程で、ジグソーパズルをはめるように、自分の中で少しずつ理解が進んでいく、という感じ(苦笑)




 

これって絵を描くときと似ている気がします。
(ちなみに私は絵が超絶下手なので、知識として間違っている点あればご容赦を・・・)

何かを模写しようとしたとき、相当見慣れていると思っていたモノですら、如何に普段は曖昧にしか見ていなかったかに気付かされることがあります。

例えば、毎日使っている自分用のマグカップを描いてみようと見始めた途端に、

あれ?こんなところに傷あった?

こんな細かい柄が入ってたっけ?

取っ手ってこんな形だったっけ?

上下左右、色んな角度や距離から観察すればするほど、そのモノに対する外形的な理解の浅さを痛感します。

特に人体を書く場合は、外形的な知識だけでなく、骨格や筋肉など人体の「内面に対する理解」まで必要になってきたりする。

講演を聴いて(インプット)、それを記事に書こうと(アウトプット)する行為も、これとすごく似ているのではないかと思います。

つまり、アウトプット(絵/記事をかく)を真剣にしようとすればするほど、インプット(対象への理解)の質が高まっていく。

もちろん一番効果的なのは、アウトプットを最初から前提として、インプットをすることですよね。

絵を描こうと決めてから、対象を観察し始めるのと、普段それほど意識的に見ていないのに、いきなり頭の中にある記憶で対象物を描こうとするのでは、対象に対するインプットの量、深さ、理解の度合いが違うわけです。(オリジナルの創作をする場合は別ですが)

だから、

本を読むなら、書評を書くつもりで。

ある領域を学習するなら、その内容をプレゼンやブログで公表するつもりで。

海外に行くなら、旅行記をつけるつもりで。

・・・

そんな感じでアウトプットを前提にしておくと、当たり前だけどインプットの効率も深さも飛躍的に変わるだろうな、と思います。

例えば仕事であれば、上記のようなケースはほとんどの場合レポートを書くわけで、それと同じようなものかも知れません。(ただただリラックスしにいくリゾートへの旅行はもちろん除きます)

アウトプットを最初から前提として、インプットをする。そして実際にアウトプットする。

釈迦に説法ならぬ、釈迦に悟りを教えるレベルの話で恐縮ですが、何かの参考になれば幸いです。





ちなみにカジケンの会社、絶賛エンジニア募集中です!(笑)