Free Hugs / mhauri
以前心に刺さり、機会があれば読み返す記事を紹介します。
永瀬清子のエッセイ2編より:小鳥ピヨピヨ
これで紹介されている永瀬清子さんという、昭和の時代に活躍された詩人の方の「八歳の」という短いエッセイです。
”八歳の”
八歳の異国民の娘が世尊に宝珠をさしあげた。
「異国民のくせに」「女のくせに」「子供のくせに」「身のほど知らず」。人々から見てその事だけでも眼をそば立てる事であった。
けれども世尊はためらいなく受けとりなされた。
「今、私が受けとったのは迅やかったかどうか」と世尊がみんなにおききなされた。
「迅し(とし)」とそれに驚いていた人々は一斉に答えた。それは彼らにとってめざましく大きな教えであった。
自分の投げた球が、そっくりキャッチされることの喜びが、この世の中で最も高度の喜びであることを私はしばしば思う。又それがどんなにむつかしい事であるかを。
私の事をすぐ受けとってくれる人。誰であればそのようにしてくれるであろうか。私はこの世の中でそれを求めている。
そして又それだから私もどのくらいそうした人でありうるかと、この世の中でいつもそれを願っている。
そしてそれらの願いのすべてはわが貧しさわが幼さに基づいている。
世尊とは仏陀、つまりお釈迦さまのことです。
仏教では、物事を感情や偏見などで条件反射的に判断せずに、あるがままを捉えるように、心を整えていきます。
だからこそ、八歳の異国民の娘のことを、そっくりそのまま受けとめることができたのです。
一方、われわれは一般的に大人になればなるほど、自分の言動をそっくり受けとめられることが減っていきます。
なぜなら、大人になるごとに経験が積み重なり、何かを見聞きしたときに、感情や偏見が反射的に湧き上がってしまうからです。
”Common sense is the collection of prejudices acquired by age eighteen.”
Albert Einstein
”常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう。”アルベルト・アインシュタイン
子どもと遊んだりするとよくあることですが、特に小さな子どもは、もうあるがままを、まるごと受けとめてくれます。あの自分が受け入れられた感覚は、ちょっと言葉にできないぐらい、感動的なもの。
でも、大人になるといつの間にか出来なくなってるんですよね。そして多くの大人はそのことに無自覚です。
このとても短い随筆を読んで、思い出しました。
いまだとても未熟な自分ですが、自分の周りの大切な人たちを、まるごと受けとめてあげられるような、そんな人間になりたい。そう思っています。
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